ゴダール『右側に気をつけろ』/ジャック・タチ『左側に気をつけろ』

「よく、ぼくの映画のすべてを理解したわけじゃないなどと口する人がいる。でもぼくの映画には理解すべきことなどなにもない。耳を傾けさえすれば、そして受け入れさえすればいい」とゴダールが言う。わかりにくいと口々に言われる後期ゴダール作品だが、何かしらの作品をわかろうとする、理解しようとするならまだしも「理解した」「理解できない」と言ってしまうこと自体が愚かなのであって、そもそも理解は前提されておらず、観者には感じることか、解釈することか、別のことを思考することしか残されていない。つくったものの意図が透けて見えるような作品はたいてい面白くないし、そんなものは作品として存在する価値がない。

ジガ・ヴェルトフ集団期の映画よりは見やすい。ジガ・ヴェルトフ集団期の作品は政治を中心に据えていて、観るのには根気がいるし従来の物語中心の商業映画とは大きく異なっている。その後、交通事故やら共同制作者を得て作られた『右側に気をつけろ』にも筋らしい筋はない。物語と政治と音楽。毎度のごとく一見したところ脈絡のない編集を施された映像と言葉を浴びるように見続けるだけ。

わかりにくい、とされるのは映画の後ろにいる作家の姿がちらつくからであろう。いったい何を言いたいのか、何を読み取ってほしいのか、何を考えればいいのか。他の映画を観るときと同じ見方を適用することはできず、困惑する。しかしながら、物語中心の見方をしつづけてきた者たちが『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』などの前期ゴダール作品はよかったのに、などという言葉は無意味でしかない。《ファン》の言説。ゴダールに限らず、映画、音楽、小説家などなど作家の初期作品はわかりやすく、キャッチーななかに独創性がほんの少し含まれているものが多く、そこでファンが生まれる。しかしファンの理解の枠内を超えた瞬間、お別れ。ファンは似たような趣向のつまらない表層をなでなでする。感情的で恣意的であり、退屈なファンの言葉。

『ウィークエンド』で商業映画に別れを告げたゴダールはもちろんそんなファンの言葉を聞く耳を持たない。

1936年、ルネ・クレマン監督、ジャック・タチ主演の『左側に気をつけろ』14分の短編、傑作。タチ演じる農家の息子ロジェがボクサーの適当な練習を見てそのマネをしていると、一人勝ちしていた男の相手がへたばってしまったせいで、リングに引き上げられ、対戦する羽目に陥る。リングサイドに置かれたボクシングの教則本を独自に解釈して動きに取り入れ、なんとか抵抗するが、殴られ、そこらにいたニワトリの動きをまねて抵抗し、ドタバタ。テンポよく笑える動きの連続。そして『右側に気をつけろ』という傑作。

冒頭、車にうまく乗ろうとしないゴダールの《白痴》っぷりで掴む。

レ・リタ・ミツコの二人のレコーディング風景が全編に渡って間断的に挿入される。ギタリストにのギターに合わせて歌うボーカルのカトリーヌ・ランジェの口の動き、首振りは声やギターの音より強度のイメージを与える。飛行機から見える青い空と白い雲とカトリーヌ・リンジェの大きく開く口と伴奏なしの部屋に響く歌声。伴奏が消され、声と口の震え、そして空へ。ゴダールしかなし得ない映像はこれだけの素材で感動を与える。

レコーディングスタジオから美しい自然光が漏れる森と輝く海へ。フランス北西部トルヴィル。白痴公爵というより監督の分身、喜劇俳優のジャック・ヴィルレ演じる《蟻》とジェーン・バーキン演じる《蝉》の再会。ジャック・ヴィルレは『カルメンという名の女』でもガソリンスタンドのトイレでジャム瓶に手を突っ込んで舐め回す男として出てくる。据え置きのカメラには森の小道の美しい緑が映り、そこに女神とも言うべきジェーン・バーキンとブルジョワ婚約者が赤いオープンカーで現れ、蟻に話しかける。労働者である蟻は洗車をし、ジェーン・バーキンの袖に水をかけてしまい、布で拭う。そのときのジェーン・バーキンの恍惚の表情は蝉だ。別れ際の形容できない表情も蝉だ。うつろう美。

もうひとりの白痴は海辺の小屋で幻想を見る。北欧か、オランダかの美女(冗談)が現れて服を変え、ついには裸になり踊る。窓の前にたつ少女、音を立てて少女の目の前でドアが閉まる。幻想はいつか終わる。

自殺の手引き『自殺、その説明書』を読む操縦士、サービス精神のないキャビンアテンダント、愛の言葉を語らうロマンカップル、アメリカ女、黒人スポーツマン、白痴ゴダールが乗り込む飛行機は『ウィークエンド』さながらの悪夢だ。黒人が《ようい、どん》のかけ声で席をなぎ倒し、女がスープを帽子に入れて飲み、パイを大口で頬張り、席取り合戦がさして盛り上がることなく行なわれる。白痴ゴダールは《白痴の微笑み》について考察し、副操縦士は『ウィークエンド』の湖畔に響いたロートレアモンの『マンドロールの歌』を朗誦し、客に復唱させる。笑いと哲学と詩の同居する飛行機から突然、サッカー場のスタンドへ。積み重なり、横たわる乗客たち「プラティニプラティニ」叫ぶ男。ヘイゼルの悲劇ヴェロドローム・ディヴェール(ヴェル・ディヴ)大量検挙事件

ゴルフ場でキャディーをするもうひとりの白痴はディズニーの絵本に夢中。ゴルフに興じるカップルは実はゴルフには気をむけておらず、相手と寝ることを考えている。観てるだけでわかるようにされている。女のケツに食い込むショートパンツ、男の手取り足取りの説明。「解説と動き」についてゴダールが語る。言葉で語るまでもなく見せてやればよい。そちらのほうがよくわかるだろう、と。女は前のめりに倒れ、男はパターを投げ捨て、女に覆い被さり接吻する。

イメージだけがある。言葉は映像あるいはイメージの付属物でしかない。

ひとつの場所

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