2012→2013→2016 WATTISMUSICFOR

映画/音楽/文学/美術

アーサー・ラッセル「World of Echo」と Hope sandoval の眠り

二、三年前から再評価によってリイシューされ、日本ではP-Vineから出されているアーサー・ラッセル。

テクノの部類に入るのだろう、Dinosor Lという変名ではハウスも聴ける。

World of Echoは踊れない。酩酊、眠り、解脱といった言葉がふさわしい浮遊感を醸すヴァイオリンとエコーのかかったアーサー・ラッセルの声。

アーサーラッセルが男で、女はHope sandoval だ。Mazzy Starというバンドの歌姫としてシューゲイザーの前あたりマイブラのあとあたりに出て解散とともに消え、マイブラのドラマーと組んでHope Sandoval & The Warm Invitationsとして再び帰ってきた。

マジー・スターと聴き比べてみるとHope Sandoval & The Warm Inventionsにおけるアコースティックなこじんまりとしたプライヴェートな空間のほうがこの歌姫にふさわしいことがわかる。Hope sandovalを知らない人が初めて彼女の声に触れるとき、驚きを禁じえないだろう。エコーがかけられているのではなく彼女の声が何層にも枝分かれし、響き渡るのだ。完結した小宇宙の中で。

前に出てくるような声ではなく、背景に埋没してしまう、楽器としての声。それは無個性ゆえではなく唯一無二の楽器としての声、代替不可能の楽器である。歌が前にでてくれば歌を聴くことになる。他の音は伴奏だ。それはそれでいい。では楽器としての声は?歌でも声楽でもない、音楽。歌詞はすべての音を吸収し、伝えられる。無意味な音などない。声を含めすべての音が曲を構成していく。歌と歌詞があるのではない。

それではなぜ眠りに導かれるのか?夢の音楽。自分の声が聞こえず、反響する物音だけが世界を覆い、スピーカーから流れる音楽はそこにあるはずなのに、一枚の壁で隔てられている。直接触れることはできず、薄い膜のようなもので包まれる。音楽はその場にいながらにしてどこかへ連れて行く、ドラッグのようなものだ。使い方には気を使わなくてはならない。中毒性をもつ響き、共振。

Hope Sandoval & The Warm Inventionsではギターと声、World of echoはヴァイオリン、電子音、声。前者はポップミュージックのコードに従い、バタフライモーニングスという曲は同名のポップソング(砂漠の流れ者のドラム缶シーン)のカバー。後者は組み合わせからして独創的であり、カルト的人気を博するのがよくわかる。ベース音はなくひたすら音が流れてゆく。浮遊する原因の一つだ。

ポップソングには終わりがあり、アーサー・ラッセルの独創的な音楽は終わりがない。決まったコードに乗る女の声は楽器であったとしてもコードに縛られており、愛と同じくやがて飽きがくる(私自身は彼女の声に囚われ、何度も飽きることなく聴いているのだが)。彼女の声は非意味性のなかでこそすべての力能を表出させるはずであり、それが歯がゆい。二枚のアルバムが出ているが、あまり変化はなくマジースターの再結成という嬉しいような残念なようなニュースさえある。彼女はビョークのように一人ではやっていく力がない。何かのライナーに相当な「悪女」と書いてあったように彼女を愛する男、他者とともに音楽が紡ぎ出される。

アーサー・ラッセルのWorld of echoはタイトル通りにいつまでも反響し続ける終わりのない音楽である。何度も繰り返し聴き、ここではないどこかをぐるぐると回って、いつのまにか辿り着く先は今までと違う場所だ。


WORLD OF ECHO CD

WORLD OF ECHO CD

バヴァリアン・フルーツ・ブレッド

バヴァリアン・フルーツ・ブレッド