ジャン=リュック・ゴダール 「ウイークエンド」

悪夢。

変態との3Pを語る逆光の女とそれを逐一聴く男のシーンは低音の効いた弦楽の効果も相まってシリアスなものに見える。
しかし、一転してインディアンの格好をした子どもが主役の夫妻の車を棒で叩いていて夫がそれにキレながらも車を動かすと角の車に当たってしまい、子どもが母を呼び、男は逃げようとする。母が夫を呼ぶと夫は突然鉄砲で夫妻の車を狙い撃ちにする。めちゃくちゃで笑うしかない。「右側に気をつけろ」の冒頭でも白痴のゴダールが常軌を逸した行動をして観客を笑わせてくれる。

夫妻がぶちあたるのはコルタサルの「南部高速道路」を連想させる渋滞。といってもコルタサルの何車線もある大道路ではなく田舎道の並木道で何台もの車が一列に並んでいる横を夫妻は遠慮なく通り抜けていく。先頭にいくというより割り込みをしようとするのだがそれはどの車も許してくれず、夫妻が割り込もうとするとスペースを埋めて夫妻に悪態をつき、夫妻も負けじと手を振り上げ応戦する。クラクションが断続的に鳴り響いていて笑おうにも笑えない。ボール遊びをして暇をつぶす者、走り回る子どものなかに横転した車が時折現れて不安を煽り、先頭では警官の笛が鳴り響き血まみれで横たわる家族、衝突した車が現れる。夫妻はスピードをあげて通り抜ける。

電話をするために止まった街角で悲鳴と地を削る高音が鳴ってトラクターにぶつかったオープンカーの中の血塗れの男に切り替わる。同乗者の女とトラクターを運転する男との間にブルジョワとプロレタリアートの論争が巻き起こる。お互いにののしりあい終わりは見えず、電話を終えた夫妻に仲介を求めるが、取り合ってくれず夫妻に怒りが向き、ののしりあっていた二人はお互いの腰に手を回す。笑う。

神を名乗る男と白痴の女との出会い。神は拳銃を撃ちまくり夫妻を脅し目的地へ向かわせるが拳銃をとられて逃げ、草原で羊を出す。このつなぎは面白かった。

その後二人は事故に遭い、妻はエルメスの鞄が!!と叫ぶ資本主義の権化っぷりを発揮し、『フランス革命から現代の週末にいたる』。レオー扮するフランス革命期の政治家サンジュストが夫妻の前に現れ、大声でなんやら叫んでいる。夫妻はまったく聴いていない。そこから電話ボックスで「もしもしきこえるかい?」を歌うレオーに切り替わり、夫妻がその電話を奪おうとしてドタバタ。レオーが柔道を思わせる投げとエルボー、空手チョップをかまして逃げ去る。やっぱりレオーは最高だ。

夫妻は資本主義の権化であり、辺り構わず自分の目的のためには他人の迷惑を省みず、やりたい放題、二人の間に愛など毛頭ない。夫妻が山道を歩いていると、不思議の国のアリスとよくわからん親父が目の前に現れ、夫妻は二人にワンヴィル(目的地)の方向を尋ねるがまったく取り合ってもらえない。『映画になんか出るからだ』と自分たちの奇妙な境遇を嘆く夫妻。映画と非映画、現実と映画の境界をゴダールは侵犯する。トリュフォーとの有名な確執、ハリウッド映画への嫌悪を隠さず醜悪なまでにさらけ出された「ウイークエンド」。アリスは火をつけられて焼死してしまう。

お次は音楽。二人は車に乗せてもらって農場の音楽会へ。モーツアルトのピアノ・ソナタ第17番ニ長調K.576を弾く男の隣には甦ったアリスが。ピアニストは現代音楽について語る。 

『要するに、2種類の音楽がある。誰もが耳を傾ける音楽と傾けない音楽だ。モーツァルトは、もちろん、みんなが耳を傾ける音楽だ。誰も耳を傾けない音楽とは、猫も逃げだす深刻で退屈な「現代音楽」というやつだ。しかし、真に現代的な音楽は、じつはモーツァルトの古典的な和音にもとづく。ダリオ・モレノビートルズローリング・ストーンズモーツァルトの和音にもとづいている。しかるに、かの深刻なる「現代音楽」の一派は、モーツァルトを葬ろうとして、たぶん芸術史上類例のない不毛におちいった。』

クラシックを多用するゴダールも『アワーミュージック』ではECMシリーズから現代音楽を引用していたし、時代は進んだのだろう。ゴダール映画のノイズは騒音としてのノイズと扱われるのみで音楽にはならない。言葉を消すジェット機の轟音、電話のベル、クラクション。現代音楽にクラシックのような華やかさ、歓喜を表すものは少なく電子音を使った重々しく悲哀に満ちた生の讃歌からはほど遠いものが多々あるのは現実である。

『きょう一日はマーフィーの肉体にとってはつらい一日でもあったので、彼はふだんよりいっそう音楽のはじまるのが待ち遠しかった』(ベケット「マーフィー」)

現代音楽のほとんどがそんな音楽ではないことはたしかだ。感傷に浸る疲れ切った男女にそっと寄り添うような音楽でもなかろう。クラシックでさえも『誰もが耳を傾ける』音楽ではなくなってしまった。CMや安っぽいドラマでドラマティックな要素を強化するために使われるだけであり、汎用性のある形容詞が流通してしまったばっかりにその遥か先にあるクラシック音楽のもつイメージは俗に貶められてしまった。「耳を傾ける」ものだけが知る、マニアックなものになってしまった現代を現代音楽はシニカルに見つめている。


本作ではモーツアルトのピアノソナタが使われている。このシーンのカメラの移動撮影は素晴らしい。音楽と調和するトラヴェリング。右から左へ、左から右へ。弾く男と聴衆を映すだけだが優雅な運動に感じられてくるのが不思議だ。夫はここでも欠伸を繰り返し、スペクタクルを絶えず求める(傍若無人な運転)男にとっては美しい音楽も退屈なだけだ。

ヒッチハイクする夫妻。質問を投げかける運転手たち?『寝るならモウとジョンソンどっちだ?』。妻に道の真ん中で股を開かせる夫。不平も言わず股を開く妻。ゴミ収集車に乗せてもらって木漏れ日の落ちる道で昼食を食べる黒人と白人のパンの上げ方。こんなところにまで政治を使う、細部までつくりこまれている。相棒に語らせつつ語らないほうへ向けられるカメラ。顔の隔たりをこえた二人は他を巻き込もうと語るが、観客と同様に夫妻はぽかんと虚空を見つめているだけで通じていない。語り方の問題は問題のままだ。

そしてようやく夫妻はワンヴィルの夫の実家へ。皮を剥いだウサギをもつ、遺産を手渡そうとしない老母を大鉈で無惨に殺す。赤身のウサギに老母の血がぴちゃぴちゃとかかり、赤はさらに赤になる。
『「ウイークエンド』の定式「それは血ではなく、赤である」は、血が赤に属する倍音的要素であることをやめ、この赤は血の唯一の調子であることを意味している。文字通りに語り、見せなければならない』(ドゥルーズ「シネマ2」より)
語りは抑えられ、色彩と動きが映画で生きている。そのままを見せられて唖然とする。言葉と映像は一体になり、映画は現実になる。

そして突然ゲリラの革命家集団に夫妻は捕らえられ、笑えない悪夢を見せられることになる。「つなぎ間違い」やエルネスト・メンゼルの唐突な登場と言葉、ラストの人肉を食べるシーンは笑えるがこれまでの笑いとは種類が異なる。自ら手を下して理不尽な人殺しをしてきた夫妻が殺されかけているのだから、ざまあみろとか神はすべてをご覧になっているだとかそんな軽いカタルシスを覚えても良さそうなのにまったくそういう空気にはならない。テロの恐怖が植え付けられているのか、無感情に銃を振りかざし、豚や鳥を殺めて殺しの快楽などとは無縁な理解不能の集団はただただ恐ろしい。非人間的な革命家たちは文明から距離を置いたところにいてそこでは人の命は動物と等価である。テロリストや革命家たちは食人鬼である。

ただ腹を抱えて笑う映画ではない。笑いは絶えず境界線上にあり、一歩踏み出せば引きつりが現れる。他人の悪夢は笑えるが、自分の悪夢は笑えない。悪夢を見ないで済むには、そこから抜け出す方法を考えるしかない。

悪夢はつづく。


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