ヴァージニア・ウルフ 「波」

河出から出された世界文学全集の「灯台へ」を読んで初めてヴァージニア・ウルフの文体に触れたが、読みにくく時間がかかった。「波』にいたっては絶版であり古本でしか手に入らない。したがって翻訳も古いのだが、「灯台へ」にある物語らしきものはなく散文詩と言っても過言ではない文章であるため読みやすさで言うと「波」のほうが易しかった。

「灯台へ」にあった政治性は影を潜め、六人の男女の語りが次々と綴られていく。その場に一緒にいて会話を交わしている様子かと思ったが、繋がりらしきものは読み取れず、個々人の説明すらないため語りの内容から類推するほかない。私は訳者のあとがきで六人の描写を見てはじめて納得した気になったが、六人の個人的な背景や情報は重要ではない。語りの中で六人の誰かが誰かのことを話し、また誰かが別の誰かのことを話す。しかもその文章は論理的・弁証法的ではなく詩的であるため、突然語られるものは変わっていき、「意識の流れ」といった言葉にすがりたくなる。

なぜ六人もの登場人物が必要なのか。それは小説内でもしきりに言及されている「他者」を存在させるためである。「灯台へ」でも一人の視点からすべてが語られることはなく、複数の人物の描写、内面、独白で物語は進んでおり、「波」はその物語的要素を排除していったものであると言える。
なぜ物語が取り除かれたのか?
それは登場人物の一人であるネヴィルの語りに見える。

『だがなぜそんな気まぐれな意匠を強いるのだ。あれやこれやと強めたりこね上げたりして、大道で何故これを選ぶのか、あの一切のなかからーー一つの些事を?』

前の文章で物語について言及しているため、この文章の指示語は物語をさしていると考えられる。物語を語る作家の恣意的な要素選択へ疑問を投げかけている。すべてのモノに物語があり、物語は誰かの手によって掬い上げられ、組み合わされて出来上がる。始まりと終わりはもちろん自在である。しかし、そこには必ず排除されるものがあり、どれだけ多くの物語が編まれてもなにかが排除される。ヴァージニア・ウルフは「波」で物語の形式から逃れ、排除されているものを取り上げた。それは「波」という小説そのものだとしか言えない。


波 (ヴァージニア・ウルフコレクション)

波 (ヴァージニア・ウルフコレクション)