北島敬三 「ISOLATED PLACES」 @ラットホールギャラリー

圧倒的な写真群。
完璧な構図で都市部に潜むエアポケットのような空間を翳めとる。風景だけを見ていても北島敬三が動いて撮る作家であることがわかる。
雪のなかにタイトル通り、隔離され、ぽつんと佇む家や廃れた民家、ガソリンスタンド、工事中の道路、新宿の街中の一角などが北島敬三の写真によって大きな写真となる。

斜めうえから画面を横切り、垂直の電柱や壁につながっていく電線や画面全体を横断する斜めの壁あるいは水平の壁、ど真ん中に位置する建物や壁の裏に浮かぶ家々。地は白い直線とともに伸びる道路や田んぼ、雪、ひび割れたコンクリート、そして色彩鮮やかな雑草。亀裂の走る壁や宙に浮かぶ電球はまったく現実感をもたずに観る者に迫ってくる。これらのモノがそこにあることは間違いないが、この写真を観るまでは知らない場所・モノだった。


目のつけどころが・・・や日常に潜む・・・などの紋切り型はうんざりだ。どうでもいい。現代美術の文脈でも絵画の文脈でもなく、北島敬三の写真だ。写真でなければこのイメージは生まれない。これらの隔絶された場所の写真は何を写しているのか。タイトル通りなのか。すべての解釈が正しく、誤りはない。まるで国語の授業のようだが、写真にはそんな文言が当てはまってしまう。中平卓馬の写真は記録である、とする大きな転向時の言葉は消えることはない。一方で私写真もアマチュア写真家の増加とともに増えつつあるのだろうか、根強く残っている。もしかしたらそちらのほうが主流なのかもしれない。感情や主観、詩、作家の言葉が写真とともに見せつけられる。自分の考えを写真で伝える、表現する、といったことは写真の必然性が希薄だ。


写真は恣意性を多分に含んでおり、それが悪用される。何も伝わらないし、何も表現などできやしないのだ。すべてが言い尽くされてしまったなかで言葉を手に文学を謳う作家はさまよい歩いている、そんななかで写真家はくだらない言葉をまだ吐き出すのか。表現としての、伝達手段としての写真は紋切り型の言葉であり、陳腐なイメージである。いい写真だ、よく聴く言葉であるがそれまでである。北島敬三の写真はもちろんそんなところは抜けている。


誤読は避けようがないが、要素を切り落としていくことで小さな本当のイメージを掴むことができる。

RAT HOLE GALLERY