素晴らしき放浪者

ジャン・ルノワール/水に救われたブーデュ

水から救われたブーデュは、本屋とその妻のあまりに親密な夢想が彼に次々とあてがう役を捨て、水によって救われる。人は生に到達するために演劇の外に出るが、水の流れにそって、すなわち時間の流れにそって、それと感じられないようにして出るのだ。時間が未来を得るのは、演劇から出ることによってである。そこから、この重要な問いが生まれる。どこから生は始まるのか。結晶の時間は二つの方向に分化するが、二つのうち一つは、結晶から出るかぎりで未来と自由をになう。そのとき現実的なものが、現働的なものと潜在的なもの、現在と過去の永遠の往復からのがれると同時に作り出されるのだ。 

         ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』第4章 時間の結晶 p121

ついに浮浪者になってしまった男は唯一の友である黒い犬を失い、パリを歩き回り、恩赦も受け取らず、セーヌへ身を投げようとするところを中流のブルジョア夫が望遠鏡で発見し、「素晴らしい浮浪者だ!」と訳のわからない言葉をのたまいながら走って助けにいく。不可解な出会い、水の中から救い出されたブーデュはアホみたいに頭を下げて感謝するでも、殺してくれればよかったのになどと幼稚なことも言わず、ただその場に居座る。《みんな、神さまの居候》。

ブーデュは「素晴らしい浮浪者」として拾われたが、家にいては浮浪することはできない。ベッドは居心地の悪い寝床であり、靴の磨き方など知るはずもない。やがて家人の誰からも嫌われ、追い出されかけるが、性的に枯れた夫の代わりに旺盛なブーデュに妻が身を任せることで延期され、宝クジの当選とともに下女との結婚が決まる。まさか自分が誰かの夫になるだなんて思いもしなかったブーデュは再び川に落ち、水に救われる形で放浪者に戻る。

婚礼の音楽。ヨハン・シュトラウスの《美しき青きドナウ》を奏でるヴァイオリン弾きたちの河岸をくだり、その下を流れる川、そのうえに浮かぶ船へ。カメラは外に出てようやく自在に美しく動き出す。セリーヌとジュリーは舟でゆく。フラン・オブライエンの《スウィム・トゥー・バーズにて》の小説内小説の登場人物たちのように与えられた役を抜け出て自由を得ること。

 

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愛の誕生 / 孤高

フィリップ・ガレル

《ガレルが映画において説明していること、それは三つの身体、男と女と子供という問題である。<身振り>としての聖なる物語。》と、ドゥルーズ

『愛の誕生』においては俳優ポール(ルー・カステル)とその妻、そして息子、そしてもう一人の赤子。小説家マルキュス(ジャン=ピエール・レオ)とその妻ヘレーヌ。マルキュスが妻に「愛してるか」となんというか幼稚にも聞こえる言葉を真剣に言い、妻は笑ってごまかし、フレーム外へ。マルキュスは女の肩にわずかに触れるだけ。

ポールは妊娠した妻を差し置いて浮気、しかし帝王切開で出産。夜の闇から一気に神々しいまでの白に染まった妻は泣いている。その涙はのちも現れる。ポールが夜泣きする赤子に絶叫し、妻は凄まじいスピードで階段を駆け上がって泣く。息子を介して謝罪と愛の言葉を告げてももはや手遅れ。この二人は完全に冷えきっている、というかポールは自分のことしか考えていない。女の身振りも言葉も理解しようとしない男。

しかし別の女と愛の行為に耽ることはできる。「ベイビーみたいだな」と言いつつ、自分の膝に頭を置く女の髪を撫で、ヴァギナを舐め、後ろから抱いて眠る。それ以外のことができない。家族と浮気相手の狭間に置かれた朝、庭で木陰の黒い闇のなかへ後ろ向きに飛び込むのはどういうことか。ケツを隠したいのか、もう消えてなくなりたいのか。

マルキュスは女に去られ、スランプに陥る。その後、ポールの運転する車のなかで語り始める。旅は何も与えない。ボードレールの《世界人》。それでもすでに車は動いていて、マルキュスは女に会いにいき、大聖堂に入り、暗闇から戻ってくる。

家族をもってしまった男と、家族になる前に別れた男。どちらも同じような影。

 

1974年の『孤高』ではジーン・セバーグの顔。無音なのは顔にフォーカスをあてるため、物語の要素をなくすためだろうが、無音というのは記憶でも夢でもありえず、動く写真のようなもの。音がない記憶や夢が純粋であるかというと別にそうではないし、声やその後ろにある物音はノイズではないはずだが、無音にしてある。それで《孤高》? フィリップ・ガレルの安易さ。

シネフィル、映画原理主義者たちしか見ない。白黒、35ミリのフィルムで、とそのメディウムに固執し、それが映画だ、という安直な断定。フィリップ・ガレルの敬愛するゴダールはフィルム、ビデオカメラ、はてはアイフォーンの動画、YouTubeの動画、デジタル、3Dと多様なメディウムを駆使するのに、2000年代でも白黒フィルムで1960年代みたいな映画を撮り、それが称揚される。原理主義というのはどの世界でも常に見苦しい。固執し、それへの愛を声高に語り、それ以外を排除する。大義名分の下で。

ジーン・セバーグイデオロギーに絡めとられ、死んでいった。心理主義的なアプローチをとるアクターズ・スタジオ出身らしく、そんな演技も散見される。なんというか、フィリップ・ガレルがカメラを構えている以上、どこでも自然さというものはなく、何かしら演じている。ニコを放っておいてこちらに入り浸っていたらしいが、生活感のようなものはまったくなく、《撮影》が行われている。

ジーン・セバーグは美しいし、あと一人の腫れぼったいまぶたの女もいい。しかしこれは「映画」であるから、彼女たちは演じている。メカスのような日記映画ではないし、ホームムービーでもない。撮りたかったから撮った、好きだから、美しいから。

ベランダか開けた白い背景をもってこちらを見ているジーン・セバーグ。しかし、彼女がバッと振り向いたとたんにそこがファッションモデル撮影のシーンみたいになってしまう。

プロフィールは不変。

 

上の二作も同様、2005年の《恋人たちの失われた革命》も白黒の35ミリフィルムで撮っている。フィルム、ビデオ、デジタル、はてはYoutubeの動画や3Dにまで映画のメディウムを広げているゴダールを敬愛している割に、メディウムは古典的で、内容も家族、恋愛と古典的。フィルムこそが映画、白黒こそ光をとらえる、という時代錯誤なシネフィル的固執か、あるいは、そうすることでしか映画がつくれないのか。それ自体は悪くないが、それが映画だ、他は映画ではないという排除が働いているとなると、昔習った定義を援用し、それを疑うことなく信仰するただの原理主義で、醜悪でしかない。善かれ悪しかれメディウムは時代とともに変化していく。フィルム、ビデオ、デジタル、3D、サイレント、トーキー、手書きワープロ。古典はメディウムとともにあり、たとえそれが時代遅れであっても輝きを失わない。それをそのまま引き継いでもしかたがない。映画をメディウムに縛りつけることはやめたほうがいい。

 

愛の誕生 [DVD]

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ヴァージニア・ウルフなんか恐くない

雌が強い世界は平和か。

いがみあい、戯れあう夫婦二人にとって失われたもの、できたかもしれない子ども。不妊。失われた、子どもとの時間。それを二人のなかで厳密なルールのもの、作り出す。禁じられた偶像創造。

そのルールは他者に子どもの存在を語らないこと。嘘と夢と現実の境界があやふやな二人の言うことだから信用はできないが、生み出された息子の年齢が16歳であることから16年間、二人は秘密を保持してきたのだろう。それを妻マーサ(エリザベス・テイラー)が、パーティーで知り合った新婚夫婦の奥さんハニーにベッドルームで教えてしまったことを知ったジョージ(リチャード・バートン)は《信じられない》というような茫然とした顔を見せ、怒りを滲ませる。しかし、ここでゲームを終わらせることはできない。それは嘘なんだ、と告白してしまうことはゲームの終わり、息子の死をもたらしてしまう。

そこでこれまでやってきたとおり、架空の息子の性格やら状況やら外見やらを話し、互いに罪を着せあう。息子の目の色はグリーン、いやブルー、いやグリーン、いやブルー、としつこく言い争われる。それは白黒のため確認できないが、夫妻の目の色に対応しているのだろう。その家に息子の存在していた痕跡がまったくないことと、ジョージの反応、はっきりしない息子の状況からみて、この夫妻に《本当は息子なんて存在しない》という判断が観客、そして新婚夫婦の夫ニックになされる。

それでもさすがにそこは突っ込まれず、庭でジョージとニックが話しているときにバラしかけるが、それでもまだ保ち、酒場で限界が訪れる。マーサによるジョージへの中傷、ジョージによるニックとハニーの秘密の暴露。とことん卑劣。特にマーサから受けた中傷を八つ当たりの形でニックとハニーに向けるジョージ。そこでマーサから宣戦布告がなされ、ニックとマーサが姦通。外の窓からそれを見つめるジョージはドア横に置かれたベル、鐘の音が鳴ったことによってある最終作戦を思いつき、酔いつぶれたハニーを利用しつつことを進める。もちろんそれはごまかしごまかしやってきた息子の死を告げること。

これしかない。二人の関係、二人のあいだにある共通の秘密を衆目に曝すこと。息子のことをマーサに話させ、ジョージはその死を告げる。マーサは当然、取り乱し、「なんで勝手に殺すのよ」と二人で培ってきたものを台無しにされたことに憤り、涙を流す。そこでようやくニックが悟り、新婚夫妻は解放される。残された二人は二人の現実に戻る。ゲームは終わり。

子どもがいない、という現実を慰めるためのゲーム。二人に共通のものをつくりだすためのゲーム。その秘密は外に出されれば無意味なものになってしまう。釈明に次ぐ釈明。嘘の塗り固め。それは二人のなかではリアルだったかもしれないが、外に出ればその幻影は消える。ゲームのやり過ぎは身体に毒、適当なところで終わらせなければ。

他人を巻き込んでの誹謗中傷の嵐は醜く、迷惑極まりないが、二人のなかだけで行われているかぎり、それは別に批難されるべきことではないし、そういうふうにしかできないのだから。言い合いは笑えるし、皮肉もユーモアもあって、なかなか楽しそう。ジョージはわからないが、マーサはそれで幸せなのだ。もっと別のやり方があることは間違いないが。

 

楽な服に着替えてからのマーサ登場のシーンはもっと綺麗にできたはずでは? エリザベス・テイラーの見せ場なのに。ニックとのダンスシーンもリズムがずれまくってるし、胸を前後に揺らしたり、腰と腰をくっつけて円形にまわしたりしてて、官能も美もない。映画なのに。

 

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クリーン / キングス & クイーン

オリヴィエ・アサイヤス。2004。

欲望の翼』『花様年華』の面影はかすか。

ヘロインを買ったのはどちらか。刑の軽重を決めるには重要な嘘。罪の重さを決めるにはたいしたことがないような嘘だが、周りはその時ではなく傾向として女に天秤を傾ける。

息子の「ママがパパを殺したんだ」という断定、批難は間違っているが、そう思いたい、思わせる部分は確実にある。

身よりもなく無一文になったところを助けてくれる友人。牢獄で女囚人といっしょに録った歌を聴いて涙を流す。唐突に登場するMazzy Starという単語。ホープサンドヴァルの声につづいて大きな特徴であるスライドギターにマギー・チャンの拙い歌をのせるのは酷。ホープサンドヴァルにはかなわない。

間奏曲はブライアン・イーノの《An Ending(Acent)》そこまでうまくはまっていたとは思えない。調性があって耳に馴染み、目立つ曲は街を歩くエミリー(マギー・チャン)に馴染まない。タイトルがタイトルだけに最後では使えなかったんだろうけど、雰囲気使い。

本作の中心は、誰にも理解され得ないであろう大衆のなかのマイノリティである女のひととき、子どもをほったらかして夫の両親に預けたまま夫とライブハウスをまわり、モーテルでドラッグに耽る、という男も女も関係なく理解を示され得ないであろう女であり、その女がパートナーの死で、まっとうで理解されうるような、まともで退屈な人生に足を踏み入れるというお話で、変わったところというものは特にない。脚本は必然的に退屈な紋切り型というか日常会話になりがちで、実際に行われているような会話が全編を覆う。

自己中心的で、恋愛至上主義なのかなんなのか、恋い慕う秘書の女にしか目がいかないちょい役のジャンヌ・バリバール、それより前にエミリーと会ってファンなんですと言いつつ色目を使う美人秘書は、親切な友人との対比として現れるが、エミリーに対してはさしたる影響は与えず、エミリーがかつてジャンヌ・バリバールと恋仲だったという説明だけ。女の新しい友情? ジャンヌ・バリバールの恐ろしい流し目。

トリッキーとかいうグローブのマークパンサーみたいな奴が出てきたり、中華料理屋でいつのまにか働いていたり、服屋の面接に行ったり、ロードムービーのようにエピソードが連なり、そのなかでメインは平行して進んでいる息子と義父義母の話で、この義父アルブレヒトの存在感たるや。

息子の死からすぐに病に倒れた妻とエミリーの板挟みになり、死んでいく妻、残される子ども、ヤク中から更正中のエミリーと話をする。息子をこれまでほったらかしにしといて、夫が死んでから一人になったから会いたい、いっしょにいたいとは都合がよすぎるけれども、妻が死んでしまって一人ではこの子の面倒はみきれない、腐っても母親だから…という葛藤でエミリーと子を会わせ、絶対に帰すという約束のもと預けるが、エミリーは勝手にシスコに連れていこうとする。想像力不足。それを優しくたしなめ、認めるアルブレヒト。歌った後、涙を流すエミリー。

まわりの人間がエミリーに惹かれるというのはわからなくもないが、なぜ惹かれるのかはまったくわからない。人の恋人は理解不可能か…

 

アルノー・デプレシャン。2004。《rois et reine》マチュー・アマルリックは今作もイカれた男、不安げにキョロキョロと動く大きなつり目、優しそうな笑顔、饒舌。全編を詩が覆う。イエイツ、アポリネール… 中心はノラ(エマニュエル・ドゥボス)と二番目の夫イスマエル(マチュー・アマルリック)。ノラは新しいブルジョワ男と新しい生活を送ろうとするが、《厳しい》父の病状の悪化によりそれどころではなくなり、存在の不安を抱え、大声で喚き、よく泣く。

第一部は《ノラ》と設定されていたが、イスマエルが唐突に登場し、狭い部屋で音楽をかけ煙草を吸っているところに第三者(姉)からの通知により精神病院から二人の男が派遣され、連行される。後に黒幕がわかるが、このときは何がなんだかわかっておらず暴れ、精神科医のカトリーヌ・ドヌーヴに当たり散らす。だんだんと状況がつかめてきて、突然トレーナーを着たかと思うと、音楽療法のサークルではヒップホップに合わせて見事なブレイクダンスを披露し、看護師のハートを掴み、さらには《中国人》というレッテルを貼られたリストカット女と仲良く煙草を吸い、ハイになって音楽を聴き、楽しむ、が手は出さない。とてもおもしろい。

ノラは冒頭からいたって安定しているように見せかけるが、父の死が間近になったとたんに取り乱し、煙草を吸うまでは落ち着くことなく当たり散らす。どう考えても一番目との夫とのあいだにできた息子を精神病院にいるイスマエルに養子にしてもらうなんて、どうかしてると思われるし、イスマエルも当惑するのだが、ノラはそれが最善だと疑わない。混乱の最中の決断はいかに。

二部《解放された苦しみ》では第二の夫イスマエルの退院と父から解放されるノラ。

ノラは三日三晩、病床の父に付き添い、看護師にモルヒネを打ちすぎるのはよくない、祈ることだ、奇跡を信じて、といわれて安楽死を決断する。遅れてやってきたヤンキーの妹にちょっとだけ責められるが、すぐに理解してもらう。しかし、亡くなった父が残したエッセイの中に挟まれた手紙が衝撃的。愛と憎しみ、最初から愛しはしなかったが、かわいく、寄ってくるから愛するようになるが、やがて娘は虚栄心やら自信やらにまみれ、うわっつらだけで、エゴイストになって、憎むようになった… 今は怒りでいっぱい… お前より先に死ぬのは納得がいかない、お前が死ねばよかった… 

始めから仲良くはなかったが、ここまでとは。身体じゅう管だらけの父がノラの手首をものすごい力で掴んで離さなかったのは、こういうことか… 息子を父に預けて自分はパリで新しい男を見つけ、ギャラリーなんかで充実した生活を送っている、父の苦しみも、息子の孤独も知らずに… エマが死ぬまで父は許さない。あの残された手紙は本心なのだろう、喪失の偽りの悲しみからは一発で冷める。その文章は遺稿を引き取りにきた編集者には手渡されず、地下のワインセラーで灰になる。

『クリスマス・ストーリー』でも今作でも登場人物に寄り添うような姿勢はデプレシャンにはなく、第三者から俯瞰され、できれば他人に見せたくないようなものを表出させる。言い争い、泣き喚き、甘い感傷に浸ろうとしてそれが無惨に打ち砕かれるところ。ワインセラーから上がってきて心配する第三の夫とStyle Council《Changing Of The Guard》にのせて踊るシーン、それは本物なのだろうかと疑いたくもなるが、幸せには違いない。すばらしい。キング&クイーン。

二人は死んで、二人残った。アメリカだったら、あるいは日本でも離婚した元夫に相談をもちかけるなんてありえないだろう。理解のあるのか、ただヒステリーを怖がって従っているのか第三の夫はイスマエル探しまで手伝う。その信頼は損なわれない。ほとんど登場しないが。

イスマエルは常に《ハイ》な弁護士に助けを請い、盗んだ薬をお駄賃代わりに《狂人》のレッテルをもらい、退院する。てっきり姉の仕業だと思っていたが、入院を提案したのは同じ楽団員で第一ヴァイオリンのライバル?、10年以上の付き合いがあるクリスティアンだとわかり、スタジオに向かい、積年の恨みつらみをあからさまに言われて退散。話の途中で殴り合いにならないところがよい。イスマエルは狂人ではない。

実家に帰り、お父さんのキオスクに行くと三人のチンピラがやってきて「ビールねえのかよ」と嘲笑し、そのついでに銃を突きつけ、金を出せと言ってくる。お父さんは笑いながら近づき、後ろ手にもった棒でめった打ちし、発砲されても動じず取引をして勝つ。イスマエルは「店をたたもう!」と叫ぶ、とてもおもしろい。その後、家で養子問題、遺産の取り分が少なくなるからと20年の付き合いである従兄弟を養子にすることを認めない姉たち、物わかりのいいイスマエルは父と母の意見を尊重する。そして《エピローグ》、ノラの息子と博物館で対話。友人のようにやっていける、養子にはしない、諭すように、内気であることを認め、否定せず、上からではなく、隣にいる者として語る。母と再会。

喜劇と悲劇、たしかにイスマエルのほうは見ていておもしろいし、笑えるコメディっぽさがあるが、まったく作り物の顔はなく、反応と内面があるだけ。たるみきった微笑みで胸元の谷間を見せながら夜の病院の廊下で誘惑してくる看護婦をやり過ごし、外の階段で入院したての《中国女》アリエルと話し、楽しく過ごす、予想外の動きというかプロットにとらわれない自由がある。ノラはそのアリエルから一目見られただけで《きれいな人ね、でも馬鹿そう》と嫉妬まじりに言われるが、本当にそう見える。落ち着いたギャラリストの微笑みは剥がれ、叫びやら疲れきった顔やらが立ち現れる。揺れるカメラはあっても極端なズームはなく、最後まで一定の距離が保たれる。ノラと第一の夫ピエールとの悲しいやり取りは回想だからか、夢の中のような極端に黒い背景のなか、演劇のようなやりとりを見せ、悪夢のような結末を得る。一回目に病院の廊下でうとうとしていたノラの前に現れる死んだピエールからは想像がつかなかった死。必然的な過去のフラッシュバックはちゃんと現在に繋がる。そこで二人のキングが失われる。

 

ジム・オルークはこれまで映画音楽を担当してきた映画監督のうちでも珍しく、アサイヤスとは音楽の話ができたと言っていた。その他は自由にやらせてもらったとのこと。テーマなんか言われた日にはそんなものを無視して音楽をつけたとのこと。そのアサイヤスは『クリーン』ではインディロックを取り上げ、最後のレコーディングシーンでは遠くにリヴァーヴのかかったギターを配置し、歌を前景に押し出した。救済としての歌?

一方、デプレシャンはイスマエルの楽団の練習でシェーンベルク音楽療法のダンスでヒップホップ、結婚パーティーでスタイル・カウンシルと多様な音楽を必然的、自然に使い、ヘンリー・マンシーニの《Moon River》がバックで控えめに通奏低音として流れている。

Moon river, wider than a mile
I'm crossing you in style some day 
Old dream maker, you heart breaker
Wherever you're going 
I'm going your way 

Two drifters, off to see the world
There's such a lot of world to see 
We're after the same rainbow's end 
Waiting round the bend 
My huckleberry friend
Moon river and me   

 

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ダグラス・サーク『心のともしび』

1954年、この年にダグラス・サークは三本も撮っている。その真ん中に位置する『心のともしび』原題は "Magnificent Obsession" 

ものすごい執念。

フィリップス夫人、ヘレン・フィリップス(ジェーン・ワイマン)と間接的にその夫の死の原因となったボブ・メリック(ロック・ハドソン)。

逆恨みというか仕方ない部分もあるのだけれど、ボブの素行が悪いこともあってヘレンは仲良くする気になれず、敬遠しつづける。ボブは拗ねて、酒をあおり、女をほったらかしてまた飲酒運転をして、そこで一晩泊めてくれた、画家であり、故フィリップにかつて助けてもらった親友のおっさんであるエドワードが翌朝、《ありがたいお話》をしてくれ、単純なボブはそれを軽く、占い師の言のように受け取り、立ち寄ったレストランで、妻が入院して金が入り用の望遠鏡の監視員に早速施しを与え、他言は無用と告げる。と、そこに偶然にもヘレンがいて、ボブは効果覿面だな!と言って、ヘレンへお話のお時間をお願いするが、ヘレンはつれなく接し、勝手な善意を押しつけ馴れ馴れしく悪びれないボブから逃げようと反対側のドアから逃げようとしたところを車に轢かれ、失明

恨んでも恨みきれないけど、いくら反省をしているとはいえ、こんな事態に陥っては話をする気にはなれない。

それでもものすごい執念で、ボブは湖畔でよその家の子どもと本や新聞を読んでいるヘレンのもとへ行き、なんやかんやで存在を気づかれ、しかし今度はロブとしてヘレンと子どもと三人で遊ぶようになる。ロック・ハドソンのよく響くイイ声だったらすぐわかるだろう。ボ、いや、ロブです。と言ったところで、おそらくヘレンは気づいていたとわかるシーン終わりの余韻。

その後、ボブはヘレンの目の治療のために尽力し、途中でやめていた医学の勉強を再会し、不埒な成金男から完全に更正する。《あなたの目になる》と言って、治る見込みがないと宣告されたヘレンを元気づけ、夜のデートへ、収穫祈願祭、藁を積み上げ、魔女の人形を焼く。

ボブだってわかってたわ。という答えを得る前の、そんだけ幸せなら何でも許せる? というボブの聞き方は子どもっぽい嫌らしさを持つが、元はそういう男だったから仕方ないのか。

そして不幸なヘレンの脱走。重荷になりたくない、という献身? へりくだり? 相思相愛なら…と言うナンシーも結局ヘレンの意志を尊重して、ともに脱走。メロドラマにありがちな偽善的な展開か、幸せを掴んだ途端に襲ってくる不安か。『ジョゼと虎と魚たち』では足に障害をもつジョゼとまだまだ若い妻夫木が束の間のしあわせをつかみ、あっさりと手放し、その感じは多くの反感と理解を生んだ。うちの母親は上野樹里を選んだ妻夫木を罵倒していた。しかし、この更正し、白髪まじりになったボブは、そんな妻夫木ではない。おそらくそのまま一緒にいても奇跡は起きただろう。かつて自堕落に時間と金を浪費したボブと同様、ヘレンも、いらぬ不安によって時間を無駄にしてしまう。

それから何年か過ぎて、病に倒れたヘレンを思ってナンシーが密告し、ボブがニューメキシコへかけつけ、自ら手術に執刀。そこで経験のなさでビビるボブをエドワードが励ますというか、半ば強制的にやらせるのだけれど、あまりよい感じではない。確かに《お前がやらなきゃ誰がやる》みたいな状況なのだが、その言い方があまりうまくなく、ズレている。《罪滅ぼしになるから》って…… ボブはそんなつもりで今までやってきたわけじゃないうえに、失敗したときにその罪は倍加されるし、よけいなプレッシャーになるだけだろうに。それで執刀直前にも手が震え、やっぱり駄目だ!ってなったところで上から見下ろすエドワードはもはや体育の先生、権力者・支配者にしか見えない。

しかし、奇跡が起きる瞬間のヘレンの顔の輝かしいこと。光に満ちあふれた顔。

 

ダグラス・サーク コレクション DVD-BOX 1 (僕の彼女はどこ/心のともしび/天の許し給うものすべて) [初回限定生産]

ジョゼと虎と魚たち Blu-ray スペシャル・エディション