ダグラス・サーク『心のともしび』

1954年、この年にダグラス・サークは三本も撮っている。その真ん中に位置する『心のともしび』原題は "Magnificent Obsession" 

ものすごい執念。

フィリップス夫人、ヘレン・フィリップス(ジェーン・ワイマン)と間接的にその夫の死の原因となったボブ・メリック(ロック・ハドソン)。

逆恨みというか仕方ない部分もあるのだけれど、ボブの素行が悪いこともあってヘレンは仲良くする気になれず、敬遠しつづける。ボブは拗ねて、酒をあおり、女をほったらかしてまた飲酒運転をして、そこで一晩泊めてくれた、画家であり、故フィリップにかつて助けてもらった親友のおっさんであるエドワードが翌朝、《ありがたいお話》をしてくれ、単純なボブはそれを軽く、占い師の言のように受け取り、立ち寄ったレストランで、妻が入院して金が入り用の望遠鏡の監視員に早速施しを与え、他言は無用と告げる。と、そこに偶然にもヘレンがいて、ボブは効果覿面だな!と言って、ヘレンへお話のお時間をお願いするが、ヘレンはつれなく接し、勝手な善意を押しつけ馴れ馴れしく悪びれないボブから逃げようと反対側のドアから逃げようとしたところを車に轢かれ、失明

恨んでも恨みきれないけど、いくら反省をしているとはいえ、こんな事態に陥っては話をする気にはなれない。

それでもものすごい執念で、ボブは湖畔でよその家の子どもと本や新聞を読んでいるヘレンのもとへ行き、なんやかんやで存在を気づかれ、しかし今度はロブとしてヘレンと子どもと三人で遊ぶようになる。ロック・ハドソンのよく響くイイ声だったらすぐわかるだろう。ボ、いや、ロブです。と言ったところで、おそらくヘレンは気づいていたとわかるシーン終わりの余韻。

その後、ボブはヘレンの目の治療のために尽力し、途中でやめていた医学の勉強を再会し、不埒な成金男から完全に更正する。《あなたの目になる》と言って、治る見込みがないと宣告されたヘレンを元気づけ、夜のデートへ、収穫祈願祭、藁を積み上げ、魔女の人形を焼く。

ボブだってわかってたわ。という答えを得る前の、そんだけ幸せなら何でも許せる? というボブの聞き方は子どもっぽい嫌らしさを持つが、元はそういう男だったから仕方ないのか。

そして不幸なヘレンの脱走。重荷になりたくない、という献身? へりくだり? 相思相愛なら…と言うナンシーも結局ヘレンの意志を尊重して、ともに脱走。メロドラマにありがちな偽善的な展開か、幸せを掴んだ途端に襲ってくる不安か。『ジョゼと虎と魚たち』では足に障害をもつジョゼとまだまだ若い妻夫木が束の間のしあわせをつかみ、あっさりと手放し、その感じは多くの反感と理解を生んだ。うちの母親は上野樹里を選んだ妻夫木を罵倒していた。しかし、この更正し、白髪まじりになったボブは、そんな妻夫木ではない。おそらくそのまま一緒にいても奇跡は起きただろう。かつて自堕落に時間と金を浪費したボブと同様、ヘレンも、いらぬ不安によって時間を無駄にしてしまう。

それから何年か過ぎて、病に倒れたヘレンを思ってナンシーが密告し、ボブがニューメキシコへかけつけ、自ら手術に執刀。そこで経験のなさでビビるボブをエドワードが励ますというか、半ば強制的にやらせるのだけれど、あまりよい感じではない。確かに《お前がやらなきゃ誰がやる》みたいな状況なのだが、その言い方があまりうまくなく、ズレている。《罪滅ぼしになるから》って…… ボブはそんなつもりで今までやってきたわけじゃないうえに、失敗したときにその罪は倍加されるし、よけいなプレッシャーになるだけだろうに。それで執刀直前にも手が震え、やっぱり駄目だ!ってなったところで上から見下ろすエドワードはもはや体育の先生、権力者・支配者にしか見えない。

しかし、奇跡が起きる瞬間のヘレンの顔の輝かしいこと。光に満ちあふれた顔。

 

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カラックス『ボーイ・ミーツ・ガール』『汚れた血』

83年。

セーヌのほとり、ブレッソン《白夜》でも中心にあった遊覧船のライト、ロマン主義者の孤独。

パーティー見物人アレックスからミレーユへの、ペソアのような痛ましい語り《ぼくは彼女に会う前から彼女を愛撫していた》… 

宇宙飛行士、星。いまは宇宙なんて言ってる場合じゃないが、恋愛もまた… 

親友トマに奪われたフロランスが白いシーツに身をまとって出てくるのを目の前で見る。せいぜい手紙とレコードをあげるだけ… 

壁に書かれた自分史。初めてのキス、セックス、最後の万引き… 

パーティー中の家の浴室でセシルカットを試みるミレーユ、コーヒーカップの割れ目からミルクを飲むアレックス、夜の語らい… 

レコード、デヴィッド・ボウイゲンズブール… 

路面電車の窓で引き裂かれる二人… 

カフェ、橋のうえでキスをするカップルに投げ銭、ポータブルレコードプレーヤー? 自分の知っている音楽、それも好きな音楽をヘッドホンで聞いて歩いているかぎり、どんなに新しい風景も紋切り型に見える。 

ピンボールで時間つぶししてたら終電を逃す。なんという間抜け。

悲劇、苦悩を求めるアレックスは本当に悲劇を引き起こす。求められる苦悩は苦悩ではなく、自慰のための自傷であり、それが他人といっしょになって求められると悲劇は起きる。ロブ・グリエの《悲劇を求め、そのなかで名を呼び続けることで不在者を存在たらしめるわたし》

カラックスはこれから楽しみはじめる。

3年後の86年『汚れた血』はハリウッドのハードボイルドサスペンスをパロった悲劇で、痛さではなく、軽さがある。

成長したのかアレックス。無口だった幼少期、本を読み漁って早熟となってハードボイルドな台詞を吐きまくる。かわいいリーズ(ジュリー・デルピー!)には気取った別れを演出して悲しませ、リーズから《とんでもないこと》が起きたと電話があり、《なにがあった!》と問いただすと浮気だった(STBOに感染するから重大といえば重大)なんてときも男前に《なんだ浮気か、脅かしやがって、そんなの全然気にしないよ》と言ったかと思うとそれが親友のトマだとわかって落胆する、という若さゆえの浮き沈みの激しさを見せる。

死んだ親父のかつての仲間マルク(ミシェル・ピッコリ)と、『ボーイ・ミーツ・ガール』では星を見つめていた男と組んで、愛のないセックスをすると感染するSTBOのワクチンを盗むことになったアレックスは路面電車で出会った白い服を着た女を追いかけ、マルクの家に着くとその女がいる、という夢の展開になってリーズと別れてすぐなのに、恋に落ちる。その相手がアンナ(ジュリエット・ビノシュ)。キアロスタミの『トスカーナの贋作』でこれでもかと口紅を塗りたくっていたジュリエット・ビノシュが可憐に笑い、遊び、おどけ、唇をひん曲げて前髪を吹き上げる。

ジュリエット・ビノシュジュリー・デルピーのために。ドニ・ラヴァンは変わらない。

実際には、白い服の女はアンナではなく別人だったというオチもつけられ、外に翻弄されるアレックスが全面に出される。

《おしゃべり》という自虐的なあだ名をアレックスに与えたカラックスはここでもまだしゃべりまくる。『ボーイ・ミーツ・ガール』のパーティー会場のキッチンでの二人のおしゃべりというよりアレックスのおしゃべりは健在だが、ここではアンナもよくしゃべる。死に怯えるマルコへの愛。部屋の中というのも相まって完全に(成就されない)二人の世界ができあがる。悲劇だから。

最後に銃で撃たれ、血を流していることに気づかれ、憐れみの目を向けられるあたりは見ていられない。それがハリウッド・システム。見ていられないものを見せることによって、痛々しさを増し、涙を流させる。今作の大まかな枠組みの借用だけではそれはないが、『ホーリー・モーターズ』で全開となったカラックスのシニシズムの萌芽がある。

今作はアレックスの悲しき自己ではなく、ジュリエット・ビノシュジュリー・デルピーのかわいさ、アレックスを見守る目、周囲が中心にあり、デビッド・ボウイの《Modern Love》に合わせて疾走し《疾走する愛って知ってる》なんて言っちゃうのはご愛嬌で、それを軽く受け流すアンナ、そして盲目的にマルコを想うアンナ、木陰で眠るリーズがいるだけでよい。この二作では両者はバラバラであり、それが二人になって『ポンヌフの恋人』、引き裂かれる『ポーラX』へ…

 

 

『ムーンライズ・キングダム』『フォーエヴァー・モーツァルト』『ホーリー・モーターズ』『ザ・マスター』 - 2012→2013→ WATTISMUSICFOR

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郊遊 <ピクニック>

《西瓜》をヴァギナの前に置いてむしゃぶりつく男から、キャベツを噛みちぎる男へ。

ツァイ・ミンリャンとリー・カンション。

息子、娘とコンテナ住まいの男が郊外の荒地で煙草を吸い、ため息をつくと二羽の鳩が飛び去る。

人間広告、強風は傍目にはわからず、道路の中央分離帯に立つ者たちのカッパの振動によってわかる。ただ立っているだけ。岳飛《滿江紅》

無邪気に笑う娘が兄に「もう一度言って」とせがむ。

娘によって擬人化されたキャベツ。酒に酔った男は寝床に拙い顔を描かれたキャベツを見て、顔を寄せ、拒絶して枕を被せて窒息させ、息の根を止めるべく引きちぎり、むしゃぶりつき、涙を流す。いなくなった女、子どもたちの母。

その後、道路を走る車、飛行機、電車のノイズより何よりも大きな音で現れる大雨。行くあてのない襤褸舟に子どもを乗せ、戻ってこれない場所に連れて行こうとする父親を引き止める女。ここが最も、なんというか、寓話めいたカット割り。

《Stray Dogs》が屯する廃墟で彼らに餌をやり、壁画を見つめ、ごく自然に放尿する女。

現代病の潔癖、家の黒い壁に穿った穴、垂れる白い液体のような沁み、人間の皺、涙。

ピクニックに行ったことがないのではなく、ピクニックという言葉の意味がわからない子ども。家族の幸せの象徴、アニエス・ヴァルダ『幸福』において示された『郊遊』。

川、そして河原の石、その後ろに森、その後ろに山が描かれた壁画を長いこと見つめ、涙する女、酒を呷る男は長い時間をかけ、後ろから女にもたれかかる、が。

 

恒例の長まわしで、動きを失い、佇み、そこにある風景を見つめるだけの人間に付与されるもの。

 

起承転結を無理やり作り出し、人間味溢れる、安易で感情的でファンタジーな物語なんてくそったれ。

 

ただのイメージ。

 

 

ツァイ・ミンリャンDVD-BOX  「楽日」「迷子」「西瓜」

プロミスト・ランド

ガス・ヴァン・サントとマッド・デイモン。

グローバル社という適当につけた感丸出しの社名が表すように、リアリズムではない。基本的に都会人から見た、疲弊する地方という視点、最後もマッド・デイモン演じるスティーブの私怨を晴らし、自らの恋愛を成就させただけのような形、つぶやくように「ものを大切に ものは僕たちのもの」という言葉だけ。都会から田舎へ移住した者たちの肯定。良くも悪くもマッド・デイモンが全面に押し出される。《狂気の沙汰》とか、二日酔いでよたよたと歩いてきて車のドアにバンと手をつくところとか、ダスティンにアリス連れて行かれるときとか、笑いは随所にあった。

自ら家族の地を継ごうと決意して田舎に戻り、教師をやっているアリスは二人の男スティーブとダスティンにたなびく。彼女にとって大事なのは彼らが大企業に勤めているかどうかではなく、イケメンで好青年なのかどうかなのだろうが、彼女も観客と同様にダスティンに一杯食わされる。『永遠の僕たち』で二人が家でアナベルが死んだときのシュミレーションをしているシーンのように、アテナとかいう環境保護団体で活動するダスティンに関するすべてがダミーだったことを知る。マッド・デイモンに知らされて。よほど嬉しかったのだろうが、わざわざ伝えに行く姿は痛々しい。アリスはいつもだいたい微笑んでいて、たなびきすぎ、ダスティンに騙されていたと知ってもデフォルトの微笑み、都合よく使われすぎている。しかしながら、都会から地方へとんぼ返りしたアリスはこの映画には必要で、その存在、スティーブの敗北がなければ、大企業のやり手のサラリーマンが環境保護を理由に謀反を起こしたりはしない。お固いテーマにもロマンスは必須なのがハリウッド…

ダスティンがその後の二人に影を落とすことはないか。最後にアリスの家を訪れたとき、アリスは二度目か三度目かのときと同じ服を着ていたのが、なんかちょっと残念だった。来るってわかってるんだったら違う服着ないか。イヤでも顔を合わせる小さな街では、おしゃれなんて無意味か。そんなことはない。

田舎の男たちも単純で、嫌なこと言われるとすぐに殴るし、ブルース・スプリングティーンで盛り上がるし、地方の描写はかなりの紋切り型。地方は動きがそもそも少なく、閉鎖的で外との交流も少ないため、紋切り型があてはまりやすく、独自の文化や伝統といったものはどんどんと廃れてきており、国道沿いにはチェーン店、あとはシャッター商店街というありふれたどこにでもあるような光景に変化している。そこから逃れるものは『サウダージ

とはいえ、何兆円もの資金をもつ大企業の鏡、ダスティン。冒頭、なぜお前のチームだけ成績がいいんだ?と聞かれてスティーブが誇らしげに言う「オハイオ出身ですから」という言葉さえもダスティンが打ち砕く。まぁダスティンも地方出身なのかもしれないが、ネブラスカ出身で農場を持っていてグローバル社にめちゃくちゃにされたんだという嘘で地元住民の心をたやすく掴んでしまい、《地方出身》なんて何のアドバンテージにもならず、口先からうまい嘘さえつけて、好青年アピールができていれば問題はない、ということが証明される。

それでも最後にはダスティンもボロを出してしまうところはかなり強引。ダスティンは社から最後まで身を隠すことを求められていたのだが、スティーブの挑発に乗ってしまい、知っているはずのないルイジアナの訴訟のことを口に出し、あーもう仕方ないなと全部をネタバレする。これのせいで、スティーブがダスティンの嘘をばらし、たぶんシェールガスの発掘は中止されるだろうからダスティンも相当の処分を受けることになり、これまでの努力は水の泡。

これでもグローバル社の計画が実行されたらそっちのほうがリアリティがあるように思えるのだが… 車買っちゃった奴も、億万長者を夢見ていたお父さんもお母さんもかわいそうに… 

そこを押し切るマッド・デイモン。

 

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キェシロフスキ『終わりなし』『愛に関する短いフィルム』/ フェルナンド・ペソア『不安の書』

政治がらみの暗殺か、心臓発作で夫アンテクを亡くした息子一人持ちの寡婦。息子は『永遠の僕たち』のヘンリー・ホッパーみたいにぼんやりと何かを見つめている。それは父か。

こういうところを狙ってくるのが宗教の勧誘、韓国映画の『シークレット・サンシャイン』だったか、そういう見るのも苦しいような展開ではなく、体毛が濃い、英語しか話せない小男と夫と手が似ているからという理由で寝てしまう、夫のことを完璧に忘却するために催眠療法をやってもらう、人助けのようなことをする。その人助けを一度は断ろうと思ったが、やる気になったのはなぜか。催眠療法で初めて再会した夫と交わされた指によるサイン、1-3-2は何を意味するのか。バンパーについた油は何だったのか。夫の資料を漁る際に出てきた自分の黒歴史、ヌードモデル時代の写真を夫が隠れて保持していて顔だけ切り取ってあるのはなぜか。若い身体に今の顔? 妻の身体に別の女の顔? 顔があるとリアリティがありすぎる? 

夫アンテクは幽霊として現れ、犬やおそらく子どもも気づいているが、妻はその一回しか会えず、そのまま進んでいたら事故を起こしていた車を故障を装って止めさせたり、後任の弁護士に疑問符をつけて警告したり、新聞を持ち去ったり、と現実に影響を与えることができる、幽霊というより透明人間のような扱い。

その後、夫と過去に関係があったと思われる《マルタ》という女が現れ、情事寸前までを意味深に語る。寡婦に語ることではない。寡婦は英語しか話せない小男との情事のあと、夫を愛していなかった、自分は冷めている、どうかしていた、と語る。それは不安や悩みといったもので、実際は夫のことをすごく想っており、夫の名前を呼びながら自慰をしたりする。催眠術師には自分の夫への記憶を戻してくれと言う。それは叶わず、息子を義母に預け、吸引自殺。

悲劇だが、映像は謎が謎のまま残されるからか悲劇の調子ではなく、重々しくもない。一番影が濃いのはストの首謀者と見られる男の弁護を死んだアンテクから定年前最後の仕事として引き継いだラブラドル。死んだアンテクから疑問符をつけられるラブラドルは、登場したときには窓際で光を浴びていたのに、見習いやら被告人と話していくうちにどんどんと暗くなっていく。アンテクは引き継ぎ前のあの軽い感じが気に入らなかったんだろう、こうでもならなければこの結果は得られなかったとでも言うような。

残された息子の悲劇性を取り除くのは、義母の家に到着した際、後部座席に座った息子から母に向かってバックミラー越しに唐突に言われる「お母さんのことも好きだけど、実を言うと、お父さんのお母さんのほうが好きなんだ。もっと連れてきてよね」という《キリンさんが好きです、でもゾウさんのほうがもーっと好きです》そのままの言葉。ああ、それならお母さんいなくても大丈夫だよね、と思ってもおかしくない。

自殺した妻と死んだアンテクは窓越しの野原をあちら側へ微妙な距離をもって歩いていく。死者の力が残された映画。

  

『愛に関する短いフィルム』はうだつの上がらない文学青年がある女に恋するブレッソンの『白夜』 と似た中途半端な変態の話であり、男の妄想が生み出した都合のいい物語だが、終盤になって話は変わっていく。

郵便局の為替係の青年トメクは、尻軽女、ビッチを自他ともに認める女マグダを向いのマンションから盗んだ望遠鏡で覗いている。トメクは一年間それを続けている。またマグダに会うために、偽の為替の通知を送って窓口までこさせといて、微笑をもって「ありません」と言う。さらに牛乳が毎日こないわ、とマグダが漏らし、牛乳屋が「人手が足りん」と言い訳するのを聞いて配達バイトまで始める。

生涯、一人の女性と実らない恋に落ちただけで、他には恋愛と呼べるような関係を取り結ばなかったフェルナンド・ペソアの『不安の書』として編纂された散文のなかに《ほとんどラブレターに近い三通の手紙》というものがあり、そのうちの一通に書かれたものはトメクと似たような状況を描き出している。

何ヶ月になるのかはっきりしないほど前からあなたが、わたしに見つめられている、たえず、いつでも同じ定まらない食い入るような視線に見つめられているのをご覧になっています。あなたがそれに気づかれているのを承知しております。さらに、気づかれているので、その視線が正確に言うと臆病というのではないが、ある意味を表していないのをきっと奇妙に思われたにちがいありません。その視線がいつも注意深く、漠然とし、変わらず、まるでそれが悲しいというだけで満足しているようで……ほかには何も……そしてそうお考えになりながら――わたしのことをどんなお気持ちで考えていらっしゃるにせよ――あるかもしれないわたしの意図を詮索されたにちがいありません。わたしが特別な独創的な臆病者か、何か狂人に類したものの一種かどちらかだとご自分に、納得されないにせよ、説明されたにちがいありません。

ペソアはそこに一般的な恋愛感情のようなものはなく、ただの視線があるだけだということを強調しており、もちろんトメクのように望遠鏡で覗くような真似はしていない。カフェかどこかで会う女性を見つめているのだろうか。

一方、《愛》をもってマグダの生活を覗いていたトメクは二度目の偽の通知のときにうろたえるマグダを見て、すべてネタばらしして、自らの視線に気づかせる。マグダは一度は拒絶するものの、気にかかって、トメクとのアイスクリームデートを承諾し、部屋まで入れ、太ももに触らせ、イカせる。トメクの愛は決して肉体関係を取り結ぶためのものではなく、《純粋》なものでなければならなかったため、覗きはしつつも自慰は自制していた。ペソアは《覗き》ではなく、想像、夢想していただけだったが、その相手の女性が既婚であったことを知って悲しむ。

あなたについて想像しようとしたことを懐かしく思いながら、わたしはある日、あなたが結婚しているのに気づいたのです! それに気づいた日は、わたしの人生にとって悲劇でした。あなたの夫を嫉妬したわけではありません。ひょっとしてそう感じていたのではないかと考えたこともありません。あなたのことを考えたのがただただ懐かしかったのです。このばかげたこと――絵のなかの女性――そう、その女性が結婚しているのをいずれ知らされることになっていたとしても、わたしの苦悩は同じだったでしょう。

《悲劇》だと言っている時点でそこに恋愛感情、愛に似たようなものの存在が明示されるが、嫉妬はしていないらしい。

マグダはそんなトメクを射精に導いたあと、「これが世間で言う愛ってものよ」と突きつける。トメクはマグダが別の男と性交する場面を覗いて、そこに複雑な感情を抱いてはいたが、愛は変わらず、自分は性交する男たちとは別の次元にいると思っていたのだろう。

あなたを手に入れる? わたしはそれがどうすることなのか分かりません。そしてたとえわたしにそれを知っているという人間的な汚れがあったとしても、あなたの夫と肩を並べようと考えるだけで、わたしは自分で考えてみてもどれほど破廉恥漢になり、自分の偉大さをどれほど侮辱する要因になったでしょう!

あなたを手に入れる? いつかたまたま、あなたが独りで暗い街路を歩いているときに、暴漢があなたを威圧し、征服し、はては妊娠させ、あなたの子宮にその男の痕跡を残すことがあるかもしれません。もしあなたを手に入れるのがあなたの身体を手に入れることなら、それに何の価値があるでしょう?

男はあなたの心を手に入れるでしょうか?……心はどのように手に入れるのでしょう? それに、あなたのその「心」を手に入れられる器用で優しい人がありうるでしょうか?(……)そのあなたの夫がそうだといいのですが……あなたはわたしが彼のレベルまで下りるのを望むでしょうか?

ペソアは《身体の所有》と《心の所有》を持ち出し、自分はそのどちらにも興味はないし、よくわからないが、自分はそんなものとは無関係の場所にいることを暗示する。

自分がその《身体の所有》の次元まで堕ちてしまったことにショックを受けたトメクは浴室で手首を切って自殺を試みて、病院送りになる。マグダはそんなトメクが気になってしかたがなく、トメクが、ほとんど母親代わりの友人の母とともに病院から帰ってくるところを覗き、トメクと友人の母の住む向かいの家を訪ね、自分が覗かれていた望遠鏡で自分の部屋を眺める。

トメクは屋上に駆け上がり、《恋の病》による熱を冷まそうとするかのように、凍てついた氷板を両頬に当て、涙のメカニズムを知るために、広げた手を机に置きアイスピックを指の隙間に打ちつづけ、血を流し、すべてを否定されてカミソリの刃を手首に突きつけた。マグダはトメクの部屋から自分の部屋を覗き、かつての、ミルクを机の上にこぼし、嘆き悲しむ自分の姿を発見し、それもまたトメクに見つめられていたことを知る。他者に見つめられることで存在する自己。もしその自己のうちに何か悲劇的なもの、身体的な痛み、精神的な痛手があったら、その眼差しは救いとなるのかもしれない。トメクの一連の自傷行為はその痛みを知り、見つめることによって癒そうという考えから行われたのかもしれない。マグダはその眼差しに愛があったことを知ってか、恍惚の表情を浮かべる。肯定の眼差し。

トメクが病院に行ってから物語の中心はマグダへ移り、男の妄想だけでは終わらなかったところが本作の独創であり、美点であろう。

ペソアは見つめる相手の気持ちを知ることがない。知りたいとも思っていなかった、のかもしれないが、もし、相手がペソアの言葉を聞いたら、どう感じるのだろうか。

いったい何時間わたしはあなたとの秘密の付きあいを頭に思い描いて過ごしたことでしょう! わたしの夢のなかで、わたしはあれほど愛し合ったのです! しかしそこでも、誓って言います、一度も自分があなたを手に入れている夢を見たことがありません。夢のなかですら、わたしは繊細で純粋なのです。美しい女性についての夢さえ尊重するのです。

                 フェルナンド・ペソア『不安の書』p564-566

 

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