郊遊 <ピクニック>

《西瓜》をヴァギナの前に置いてむしゃぶりつく男から、キャベツを噛みちぎる男へ。

ツァイ・ミンリャンとリー・カンション。

息子、娘とコンテナ住まいの男が郊外の荒地で煙草を吸い、ため息をつくと二羽の鳩が飛び去る。

人間広告、強風は傍目にはわからず、道路の中央分離帯に立つ者たちのカッパの振動によってわかる。ただ立っているだけ。岳飛《滿江紅》

無邪気に笑う娘が兄に「もう一度言って」とせがむ。

娘によって擬人化されたキャベツ。酒に酔った男は寝床に拙い顔を描かれたキャベツを見て、顔を寄せ、拒絶して枕を被せて窒息させ、息の根を止めるべく引きちぎり、むしゃぶりつき、涙を流す。いなくなった女、子どもたちの母。

その後、道路を走る車、飛行機、電車のノイズより何よりも大きな音で現れる大雨。行くあてのない襤褸舟に子どもを乗せ、戻ってこれない場所に連れて行こうとする父親を引き止める女。ここが最も、なんというか、寓話めいたカット割り。

《Stray Dogs》が屯する廃墟で彼らに餌をやり、壁画を見つめ、ごく自然に放尿する女。

現代病の潔癖、家の黒い壁に穿った穴、垂れる白い液体のような沁み、人間の皺、涙。

ピクニックに行ったことがないのではなく、ピクニックという言葉の意味がわからない子ども。家族の幸せの象徴、アニエス・ヴァルダ『幸福』において示された『郊遊』。

川、そして河原の石、その後ろに森、その後ろに山が描かれた壁画を長いこと見つめ、涙する女、酒を呷る男は長い時間をかけ、後ろから女にもたれかかる、が。

 

恒例の長まわしで、動きを失い、佇み、そこにある風景を見つめるだけの人間に付与されるもの。

 

起承転結を無理やり作り出し、人間味溢れる、安易で感情的でファンタジーな物語なんてくそったれ。

 

ただのイメージ。

 

 

ツァイ・ミンリャンDVD-BOX  「楽日」「迷子」「西瓜」

プロミスト・ランド

ガス・ヴァン・サントとマッド・デイモン。

グローバル社という適当につけた感丸出しの社名が表すように、リアリズムではない。基本的に都会人から見た、疲弊する地方という視点、最後もマッド・デイモン演じるスティーブの私怨を晴らし、自らの恋愛を成就させただけのような形、つぶやくように「ものを大切に ものは僕たちのもの」という言葉だけ。都会から田舎へ移住した者たちの肯定。良くも悪くもマッド・デイモンが全面に押し出される。《狂気の沙汰》とか、二日酔いでよたよたと歩いてきて車のドアにバンと手をつくところとか、ダスティンにアリス連れて行かれるときとか、笑いは随所にあった。

自ら家族の地を継ごうと決意して田舎に戻り、教師をやっているアリスは二人の男スティーブとダスティンにたなびく。彼女にとって大事なのは彼らが大企業に勤めているかどうかではなく、イケメンで好青年なのかどうかなのだろうが、彼女も観客と同様にダスティンに一杯食わされる。『永遠の僕たち』で二人が家でアナベルが死んだときのシュミレーションをしているシーンのように、アテナとかいう環境保護団体で活動するダスティンに関するすべてがダミーだったことを知る。マッド・デイモンに知らされて。よほど嬉しかったのだろうが、わざわざ伝えに行く姿は痛々しい。アリスはいつもだいたい微笑んでいて、たなびきすぎ、ダスティンに騙されていたと知ってもデフォルトの微笑み、都合よく使われすぎている。しかしながら、都会から地方へとんぼ返りしたアリスはこの映画には必要で、その存在、スティーブの敗北がなければ、大企業のやり手のサラリーマンが環境保護を理由に謀反を起こしたりはしない。お固いテーマにもロマンスは必須なのがハリウッド…

ダスティンがその後の二人に影を落とすことはないか。最後にアリスの家を訪れたとき、アリスは二度目か三度目かのときと同じ服を着ていたのが、なんかちょっと残念だった。来るってわかってるんだったら違う服着ないか。イヤでも顔を合わせる小さな街では、おしゃれなんて無意味か。そんなことはない。

田舎の男たちも単純で、嫌なこと言われるとすぐに殴るし、ブルース・スプリングティーンで盛り上がるし、地方の描写はかなりの紋切り型。地方は動きがそもそも少なく、閉鎖的で外との交流も少ないため、紋切り型があてはまりやすく、独自の文化や伝統といったものはどんどんと廃れてきており、国道沿いにはチェーン店、あとはシャッター商店街というありふれたどこにでもあるような光景に変化している。そこから逃れるものは『サウダージ

とはいえ、何兆円もの資金をもつ大企業の鏡、ダスティン。冒頭、なぜお前のチームだけ成績がいいんだ?と聞かれてスティーブが誇らしげに言う「オハイオ出身ですから」という言葉さえもダスティンが打ち砕く。まぁダスティンも地方出身なのかもしれないが、ネブラスカ出身で農場を持っていてグローバル社にめちゃくちゃにされたんだという嘘で地元住民の心をたやすく掴んでしまい、《地方出身》なんて何のアドバンテージにもならず、口先からうまい嘘さえつけて、好青年アピールができていれば問題はない、ということが証明される。

それでも最後にはダスティンもボロを出してしまうところはかなり強引。ダスティンは社から最後まで身を隠すことを求められていたのだが、スティーブの挑発に乗ってしまい、知っているはずのないルイジアナの訴訟のことを口に出し、あーもう仕方ないなと全部をネタバレする。これのせいで、スティーブがダスティンの嘘をばらし、たぶんシェールガスの発掘は中止されるだろうからダスティンも相当の処分を受けることになり、これまでの努力は水の泡。

これでもグローバル社の計画が実行されたらそっちのほうがリアリティがあるように思えるのだが… 車買っちゃった奴も、億万長者を夢見ていたお父さんもお母さんもかわいそうに… 

そこを押し切るマッド・デイモン。

 

Promised Land [DVD] [Import]

キェシロフスキ『終わりなし』『愛に関する短いフィルム』/ フェルナンド・ペソア『不安の書』

政治がらみの暗殺か、心臓発作で夫アンテクを亡くした息子一人持ちの寡婦。息子は『永遠の僕たち』のヘンリー・ホッパーみたいにぼんやりと何かを見つめている。それは父か。

こういうところを狙ってくるのが宗教の勧誘、韓国映画の『シークレット・サンシャイン』だったか、そういう見るのも苦しいような展開ではなく、体毛が濃い、英語しか話せない小男と夫と手が似ているからという理由で寝てしまう、夫のことを完璧に忘却するために催眠療法をやってもらう、人助けのようなことをする。その人助けを一度は断ろうと思ったが、やる気になったのはなぜか。催眠療法で初めて再会した夫と交わされた指によるサイン、1-3-2は何を意味するのか。バンパーについた油は何だったのか。夫の資料を漁る際に出てきた自分の黒歴史、ヌードモデル時代の写真を夫が隠れて保持していて顔だけ切り取ってあるのはなぜか。若い身体に今の顔? 妻の身体に別の女の顔? 顔があるとリアリティがありすぎる? 

夫アンテクは幽霊として現れ、犬やおそらく子どもも気づいているが、妻はその一回しか会えず、そのまま進んでいたら事故を起こしていた車を故障を装って止めさせたり、後任の弁護士に疑問符をつけて警告したり、新聞を持ち去ったり、と現実に影響を与えることができる、幽霊というより透明人間のような扱い。

その後、夫と過去に関係があったと思われる《マルタ》という女が現れ、情事寸前までを意味深に語る。寡婦に語ることではない。寡婦は英語しか話せない小男との情事のあと、夫を愛していなかった、自分は冷めている、どうかしていた、と語る。それは不安や悩みといったもので、実際は夫のことをすごく想っており、夫の名前を呼びながら自慰をしたりする。催眠術師には自分の夫への記憶を戻してくれと言う。それは叶わず、息子を義母に預け、吸引自殺。

悲劇だが、映像は謎が謎のまま残されるからか悲劇の調子ではなく、重々しくもない。一番影が濃いのはストの首謀者と見られる男の弁護を死んだアンテクから定年前最後の仕事として引き継いだラブラドル。死んだアンテクから疑問符をつけられるラブラドルは、登場したときには窓際で光を浴びていたのに、見習いやら被告人と話していくうちにどんどんと暗くなっていく。アンテクは引き継ぎ前のあの軽い感じが気に入らなかったんだろう、こうでもならなければこの結果は得られなかったとでも言うような。

残された息子の悲劇性を取り除くのは、義母の家に到着した際、後部座席に座った息子から母に向かってバックミラー越しに唐突に言われる「お母さんのことも好きだけど、実を言うと、お父さんのお母さんのほうが好きなんだ。もっと連れてきてよね」という《キリンさんが好きです、でもゾウさんのほうがもーっと好きです》そのままの言葉。ああ、それならお母さんいなくても大丈夫だよね、と思ってもおかしくない。

自殺した妻と死んだアンテクは窓越しの野原をあちら側へ微妙な距離をもって歩いていく。死者の力が残された映画。

  

『愛に関する短いフィルム』はうだつの上がらない文学青年がある女に恋するブレッソンの『白夜』 と似た中途半端な変態の話であり、男の妄想が生み出した都合のいい物語だが、終盤になって話は変わっていく。

郵便局の為替係の青年トメクは、尻軽女、ビッチを自他ともに認める女マグダを向いのマンションから盗んだ望遠鏡で覗いている。トメクは一年間それを続けている。またマグダに会うために、偽の為替の通知を送って窓口までこさせといて、微笑をもって「ありません」と言う。さらに牛乳が毎日こないわ、とマグダが漏らし、牛乳屋が「人手が足りん」と言い訳するのを聞いて配達バイトまで始める。

生涯、一人の女性と実らない恋に落ちただけで、他には恋愛と呼べるような関係を取り結ばなかったフェルナンド・ペソアの『不安の書』として編纂された散文のなかに《ほとんどラブレターに近い三通の手紙》というものがあり、そのうちの一通に書かれたものはトメクと似たような状況を描き出している。

何ヶ月になるのかはっきりしないほど前からあなたが、わたしに見つめられている、たえず、いつでも同じ定まらない食い入るような視線に見つめられているのをご覧になっています。あなたがそれに気づかれているのを承知しております。さらに、気づかれているので、その視線が正確に言うと臆病というのではないが、ある意味を表していないのをきっと奇妙に思われたにちがいありません。その視線がいつも注意深く、漠然とし、変わらず、まるでそれが悲しいというだけで満足しているようで……ほかには何も……そしてそうお考えになりながら――わたしのことをどんなお気持ちで考えていらっしゃるにせよ――あるかもしれないわたしの意図を詮索されたにちがいありません。わたしが特別な独創的な臆病者か、何か狂人に類したものの一種かどちらかだとご自分に、納得されないにせよ、説明されたにちがいありません。

ペソアはそこに一般的な恋愛感情のようなものはなく、ただの視線があるだけだということを強調しており、もちろんトメクのように望遠鏡で覗くような真似はしていない。カフェかどこかで会う女性を見つめているのだろうか。

一方、《愛》をもってマグダの生活を覗いていたトメクは二度目の偽の通知のときにうろたえるマグダを見て、すべてネタばらしして、自らの視線に気づかせる。マグダは一度は拒絶するものの、気にかかって、トメクとのアイスクリームデートを承諾し、部屋まで入れ、太ももに触らせ、イカせる。トメクの愛は決して肉体関係を取り結ぶためのものではなく、《純粋》なものでなければならなかったため、覗きはしつつも自慰は自制していた。ペソアは《覗き》ではなく、想像、夢想していただけだったが、その相手の女性が既婚であったことを知って悲しむ。

あなたについて想像しようとしたことを懐かしく思いながら、わたしはある日、あなたが結婚しているのに気づいたのです! それに気づいた日は、わたしの人生にとって悲劇でした。あなたの夫を嫉妬したわけではありません。ひょっとしてそう感じていたのではないかと考えたこともありません。あなたのことを考えたのがただただ懐かしかったのです。このばかげたこと――絵のなかの女性――そう、その女性が結婚しているのをいずれ知らされることになっていたとしても、わたしの苦悩は同じだったでしょう。

《悲劇》だと言っている時点でそこに恋愛感情、愛に似たようなものの存在が明示されるが、嫉妬はしていないらしい。

マグダはそんなトメクを射精に導いたあと、「これが世間で言う愛ってものよ」と突きつける。トメクはマグダが別の男と性交する場面を覗いて、そこに複雑な感情を抱いてはいたが、愛は変わらず、自分は性交する男たちとは別の次元にいると思っていたのだろう。

あなたを手に入れる? わたしはそれがどうすることなのか分かりません。そしてたとえわたしにそれを知っているという人間的な汚れがあったとしても、あなたの夫と肩を並べようと考えるだけで、わたしは自分で考えてみてもどれほど破廉恥漢になり、自分の偉大さをどれほど侮辱する要因になったでしょう!

あなたを手に入れる? いつかたまたま、あなたが独りで暗い街路を歩いているときに、暴漢があなたを威圧し、征服し、はては妊娠させ、あなたの子宮にその男の痕跡を残すことがあるかもしれません。もしあなたを手に入れるのがあなたの身体を手に入れることなら、それに何の価値があるでしょう?

男はあなたの心を手に入れるでしょうか?……心はどのように手に入れるのでしょう? それに、あなたのその「心」を手に入れられる器用で優しい人がありうるでしょうか?(……)そのあなたの夫がそうだといいのですが……あなたはわたしが彼のレベルまで下りるのを望むでしょうか?

ペソアは《身体の所有》と《心の所有》を持ち出し、自分はそのどちらにも興味はないし、よくわからないが、自分はそんなものとは無関係の場所にいることを暗示する。

自分がその《身体の所有》の次元まで堕ちてしまったことにショックを受けたトメクは浴室で手首を切って自殺を試みて、病院送りになる。マグダはそんなトメクが気になってしかたがなく、トメクが、ほとんど母親代わりの友人の母とともに病院から帰ってくるところを覗き、トメクと友人の母の住む向かいの家を訪ね、自分が覗かれていた望遠鏡で自分の部屋を眺める。

トメクは屋上に駆け上がり、《恋の病》による熱を冷まそうとするかのように、凍てついた氷板を両頬に当て、涙のメカニズムを知るために、広げた手を机に置きアイスピックを指の隙間に打ちつづけ、血を流し、すべてを否定されてカミソリの刃を手首に突きつけた。マグダはトメクの部屋から自分の部屋を覗き、かつての、ミルクを机の上にこぼし、嘆き悲しむ自分の姿を発見し、それもまたトメクに見つめられていたことを知る。他者に見つめられることで存在する自己。もしその自己のうちに何か悲劇的なもの、身体的な痛み、精神的な痛手があったら、その眼差しは救いとなるのかもしれない。トメクの一連の自傷行為はその痛みを知り、見つめることによって癒そうという考えから行われたのかもしれない。マグダはその眼差しに愛があったことを知ってか、恍惚の表情を浮かべる。肯定の眼差し。

トメクが病院に行ってから物語の中心はマグダへ移り、男の妄想だけでは終わらなかったところが本作の独創であり、美点であろう。

ペソアは見つめる相手の気持ちを知ることがない。知りたいとも思っていなかった、のかもしれないが、もし、相手がペソアの言葉を聞いたら、どう感じるのだろうか。

いったい何時間わたしはあなたとの秘密の付きあいを頭に思い描いて過ごしたことでしょう! わたしの夢のなかで、わたしはあれほど愛し合ったのです! しかしそこでも、誓って言います、一度も自分があなたを手に入れている夢を見たことがありません。夢のなかですら、わたしは繊細で純粋なのです。美しい女性についての夢さえ尊重するのです。

                 フェルナンド・ペソア『不安の書』p564-566

 

キェシロフスキ初期作品集III 終わりなし/愛に関する短いフィルム [DVD]

不安の書

マチュー・アマルリック『さすらいの女神たち』

ディーバ… ニュー・バーレスク… マチュー・アマルリック… アメリカン・ガラージ… ルイ・ルイ… 

パリとテレビラジオ電波にトラウマをもつ座長ジョアキム、がに股と釣り上がった目から《カエルさん》と呼ばれる。やりたいようにやっていると痛い目に合う。Uターン禁止なのにすると「最低」と離婚した妻との子ども(兄)に言われる。仲違いしたかつての上司に仕事の相談に行くと「存在しない」と言われ罵られ、ある程度まで手伝ってくれたかつての仕事仲間の男に殴られ、左瞼を切る。つづいて助けを請うた、かつての仕事仲間、入院中の女に喚かれる(子どもが教えてくれる)。

それでもいまやっているバーレスクツアーの見世物のときだけは楽しむ。音楽に合わせて踊り、ひときわ大きな身体で美しいダンスを見せるミミ・ル・ムーの踊りをじっと見つめ、微笑む。が、その最中に子ども兄が脱走し、警察に捕まり、事情聴取される。眠れない夜、ホテルの廊下でミミ・ル・ムーのダンスを一度は褒めておきながら、皮肉を言われるとすぐに前言撤回、口論となり、翌朝、街に連れて行けと言われ、大型スーパーでお買い物。

追い打ちばかりのカエルさんにまたしても打撃。レジ打の中年女がミミ・ル・ムーに「昨日見ました。素晴らしかったです。帰ってうちの旦那に私もやってみせたんです」と言うとミミ・ル・ムーは歓び、カエルさんを呼び、カエルさんも適当にお礼を言っているとレジ女が「わたしの、見てくれません?」と言ってその場でシャツのボタンを外しはじめ、困惑したカエルさんは「やめてください、人が見ています」と至極まともなことを言う。するとレジ女はブチ切れ、バーコード読取の「ピッ」に合わせて口汚く罵り、商品を投げる。とてもおぞましい豹変。レイモンド・カーヴァーの短編にありそうなアメリカ的な豹変、礼讃から罵倒。カエルさんも似たようなことをミミ・ル・ムーにしているのだけれど、そこにはまだ共通の理解らしきものがあってまだ受け入れられる。しかし、このレジおばさんは何の前提もない赤の他人で、好意的に接してきておきながら自分の思い通りにいかないとなるとブチ切れる、それを目の前でやられたときの恐怖、おぞましさはなかなか。さすがにミミ・ル・ムーも優しくなる。

そんな、痛めつけられるカエルさん。ストリップショー、バーレスクの一座の座長、といえばカサヴェテス『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』、紛れもないアメリカ映画であって、今作もストリッパーはすべてアメリカから連れてきた女たち。カエルさんは二回ほど「パリはもう終わった、うんざりだ」というようなことを言う。アメリカに行って『パリ、テキサス』を撮ったヴェンダースの方法は採択せず、あくまでフランスでアメリカの女、音楽を使って撮る。

使われる曲はアメリカのルグラン、ヘンリー・マンシーニジャームッシュストレンジャー・ザン・パラダイス』『ミステリートレイン』でもお馴染みScreamin Jay Howkins《Put a Spell On You》、50ー60年代あたりのガラージThe Sonics《Louie Louie》Nomad というスウェーデンのバンドのヴァージョンも)、《Have Love Will Travel》がふんだんに使われてる。本物のダンサーたちが踊るダンスシーンは本当に素晴らしい。ぶちあがる。ミミ・ル・ムーの羽根踊りはカエルさんといっしょに感動する。ルイ・ルイを踊る男のダンスも楽しい。

帰る場所のないカエルさんは疲れきってラジオ、テレビのノイズどころか、ギター弾きの演奏にも耐えられない。癒してくれたのはラジオを切ってくれたガソリンスタンドの女、ミミ・ル・ムー、ダンサーの女たち。海辺の廃墟ホテルで談笑し、館内連絡のピンポンパンポンにつづいてショータイムを告げる挨拶、そして音楽《Have Love Will Travel》に合わせてマチュー・アマルリックが「wahho!」と叫んで幕。優雅で疲れきっていてそれでも何とかやってみようとして叫ぶ、KOOL

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さすらいの女神(ディーバ)たち [DVD]

 

ジャ・ジャンクー『青の稲妻』

2004年。ジャ・ジャンクー

2001年、中国、山東省。中国WTO加盟、天輪功狂信者が天安門広場で焼身自殺、2008年北京オリンピック決定、工場労働者の社員宿舎爆破事件、高速道路開通。

若者2人、無気力だらだらのビンビンとスカした痩せ男シャオジイはそれらの事件の影響を少なからず受け、シャオジイはバイクで高速道路を走り、オリンピック決定の瞬間には喜ぶまわりと対照的に静かに画面を見つめるだけ。

ビンビンにはお固いハイスクールガールフレンドのユェンユェンがいて、ビンビンが相手の家に行き、暗い部屋で横に並びテレビを見つめながら話すが手を握るだけでそれ以上は許されない。それでも優しいビンビンは勢いづいた彼女に何か言われ、「怒らないの?」と聞かれ、「お嬢様には怒らない」それでも悶々とするビンビンは風俗嬢のおばさんからマッサージを受けるが、彼女のことが頭をちらつくのか、中断させる。

シャオジイが惚れる胡散臭くて不味そうな「モンゴル王酒」の販売所で踊り子をするチャオチャオはやり手の金持ちヤグザ男チャオサンに実権を握られ、それに抗うこともなく、金のために働く。チャオチャオはこの男が酒場の個室で別の女といっしょにいたことに腹を立て、口を尖らせ、踊り子を見つめる男の肩に噛みつき、その肩に頭を預ける。言葉ではなく噛みつき。

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言い寄るシャオジイにむかってチャオチャオは「中絶したばかり」だと告げるが、シャオジイは「別にいい、麺のようにほぐしてやる」と答える。「麺のようにほぐす」、中絶、傷ついたヴァギナ、イメージ。チャオチャオは接吻を与える。その接触面は観客に見せず、一人車内に残されたシャオジイの口から漏れる煙で接吻がなされたことがわかる。

先生だったチャオサンと高校を辞め、駆け落ちし踊り子になって中絶までして客寄せパンダになって入院中でしくしくと涙を流す弱りきった父の入院費用を稼ぐチャオチャオは最初仕事もせずにふらふらしているシャオジイに取り合わないが、金が二人を繋ぎ、暴力的なチャオサンへの嫌気もあってシャオジイと接近し、ホテルに入る。

そこで荘子の「胡蝶の夢」「逍遥遊」の話をするが、シャオジイはどちらも知らない。理解はなく抱擁するだけ。「逍遥遊」、《無為自然》《何ものにも邪魔されず、拘束されない自由な境地》、チャオチャオがそれを求めているのはわかるが、肩にいれた蝶のタトゥー、夢の中で胡蝶となって舞うような場面は見せられない。チャオサンと結ばれた高校時代か。

兵役に応募したビンビンは「肝炎だから兵役はお預けだ、うつるから恋人には気をつけろ」と言われる。その後にユェンユェンに携帯電話をプレゼントとしてあげ、これでまた連絡取れるね、とやさしい言葉をもらっても「これからなんてない」とすげなく言い、「こっちにおいでよ」と言われても行かず、「キスして」と言われてもしない。うつるから。耐えに耐え、待ち望んでいた唇が目の前にあるのに肝炎のせいでキスができない。ユェンユェンは一人立ち上がり、自転車に乗り、ビンビンの前で止まり、弧を描いてまた止まり、外に出ていく。蝶。ビンビンはその夢の動きにのらず。いつのまにかチャオチャオと切れたシャオジイとともに爆破事件に触発されたのか、偽の爆弾をもって銀行強盗をくわだてる。ビンビンは引っ捕らえられ、取調室でかつてユェンユェンとユニゾンした「任逍遥」を独唱。

一人、ビンビンを残して逃げたシャオジイは稲妻が光るなか、バイクを走らせ、使えなくなったバイクを捨て、ヒッチハイク

 無為、やることのない時間をやり過ごすための煙草と女。退屈をしのぐことと青春。

 

青の稲妻 [DVD]